馬込村の今昔


  私が馬込組で開業したのは昭和30年の始め、当時の組長は小池先生であった。その頃の馬込と云えばまだ高層建物はなく田や畠があったし、樹木も緑がいっぱいだった。馬込は丘や坂が多く馬込から大森駅に出るのも上がったり、下ったり大変だった。環七はなくて谷中通りと云って中央がどぶ川で雨が降ると泥んこで長靴なしでは歩けなかった。商店街は排水が悪いのか大洪水で水に浸った。今の新幹線の鉄橋は品鶴線で品川と鶴見を貨物列車が走っていた。ガードから向かうは夜など真暗でこわかった。
 二眼レフカメラの国産第一号リコーフレックスも環七沿いの理研で誕生した。当時の医者の往診は人力車で、そのうち富田先生がスクーターで走っていくのを遠くから見てうらやましく思った。
 「九十九谷の仙境馬込村」と石山先生は云った。その頃馬込組の会費は月額150円から300円に値上がりした。静かな馬込村には多くの文芸作家が好んで住んでいた。
 かつての牛追村、尾崎士郎の「空想部落」時代のあの牧歌的風景は変わりつつあった。
昭和24年7月大森日赤増床反対の大会が開かれた。昭和39年には新幹線の建設で馬込橋の工事が行われた。終戦後馬込組員は、4、5名だったが、急激に増加し20名を越し、女性組長木原先生が誕生した。畠に彩られた水道タンクが目を引いた。
 馬込銀座に都キネマという映画館があり坂妻や嵐寛のチャンバラを夢中で見行った。馬込生活館老人健診が行われ地区住民の健康管理が重要視された当時「流感」が猛威をふるった。

(文責・大畠 俊正)

往診は人力車に乗って


  昭和初期、医者の往診は専ら人力車に頼っていた。車代は1幹50銭、往診料1円が相場だったが、ちょっと遠いと車代1円、往診料は2円になった。大森駅に近い先生の中にはお抱えの車夫がいる人もあったが、普通は駅の近くにたむろしている人力車の時間を割り当てて使っていた。
 また多くの医院が毎月の診療代の集金を車夫に依頼するなど、医師と人力車の関係は切っても切れないものだった。

(文責・仁科 岩男)

名医の処方箋


  開業医にとって大正時代はよき時代だったようである。「主な薬は重曹、苦味丁幾(クミチンキ)、アスピリン、モヒ、蓖麻子(ヒマシ)油等で、これらで治療できないようでは医者とはいえない。本人の回復力で病気を治すように導けばよいのだ」とは今は亡き名医の言葉である。

(文責・仁科 岩男)

捨てる神あれば……


  会館建設を決めたものの、当時医師会の財政状態は厳しく、建坪80余坪という当初の計画も、予算が許さず止む無く66坪に縮小。

 建設委員会の庶務主任・鬼頭直温と総務主任・松井卓爾は建設資金調達のため、市中銀行に片っ端から融資を申し込んだが、どこにも相手にされず、途方に暮れた。

 最後に城南信用金庫入新井支店に掛け合いにいったところ、たまたま支店長が地元出身だったことから、前向きに対応してくれ、ようやく土地を担保に、500万円の融資を受けることができた。

 この時ばかりは、人の好意が身に沁みたと、鬼頭は後々にまで語っている。

(執筆者・こぼれ者《佚名》)